愛と欲望(山本芳久、若松英輔)

 山本 アーレントは次のように述べています。「『愛』caritasと『欲望』cupiditasは、それぞれの追求する対象によって互いに区別されるのであり、追求の仕方そのものによって区別されるのではない」。  ラテン語には愛や欲求を意味する単語が結構たくさんあります。アウグスティヌスは、それをうまく区別しながら議論を組み立てていて、caritasとcupiditasは代表的なものなんです。caritasはキリスト教的な愛ですね。それに対して欲望cupiditasとは、特にこの世的なものを自分のものにすることを意味する単語だと言います。  若松 愛と欲望について、アーレントは、愛は「善きもの」を希求すると言います。さらに愛は、「善きもの」だけでなく、永遠なるものと人間を結ぶ、とも書いています。一方で、欲望は時限的なもの、永遠ならざるものを求めていくといいますね。  山本 さらに彼女は、「人間とは、その人が追い求めるものにほかならない」とも言います。「『欲望の人』は、自らの『欲望』そのものによって消えゆく運命へと定められるが、他方『愛』は、追求される『永遠性』の故に、自ら永遠なるものとなる」とも。儚いもの、この世的なものを欲望する人は、自分自身が儚い存在であることになってしまうわけです。  欲望=クピディタスが軸になっている人は、本当に求めるべきもの、探究すべきものを見失って、その代わりに雑多な、この世的なものにとらわれる。それを「好奇心(curiositas)」とアウグスティヌスは呼びます。現代では「好奇心」はよいものと言われることが多いのですが、キリスト教哲学、アウグスティヌス以来の伝統では、「好奇心」はよからぬものなのです。